【富山の歴史】歴史上の人物や建造物など縄文時代から調べてみた
どうも、編集長のサクラです。
突然ですがみなさんは、富山県に住んでいながら一体どれくらい富山の歴史を知っているでしょうか?
私はというと、そもそも日本の歴史すらあまり知らず、ワンピースばっかり読んで過ごしています。
だからかどうかわかりませんが、ワンピースを読んでいる間に、しょっちゅう母親が掃除機にやってきます。
ただ、富山県に住んでいながらそんな海賊世界のことだけ知っていてもよくありません。
ということで、本日は富山の歴史上重要っぽいところを抜粋して調べてみました!
紀元前約4000年の富山県。
いきなりすぎてビックリした人もいるかもしれませんが、縄文時代にも富山県がありました。
正確には富山県があったわけではなく、富山県ができるところに人が住んでいました。
富山市にある北代縄文広場では、そんな縄文時代の風景や家の様子などを学ぶことが出来ます。
→【北代縄文広場】富山県には縄文時代に人が住んでいた
時代は縄文時代から一気に701年に進みます。
このときに高岡市の伏木には、奈良時代に越中国(現在の富山県)の国府が置かれました。
この国府に、日本最古の歌集「万葉集」の代表的歌人である大伴家持が国守として5年間赴任していたのです。
ちなみに万葉集は約4500首という膨大な量であり、これを編集した家持は、わたしが見習うべき編集長ですね。
正確には、もっと以前に北陸地方は越国(こしのくに)や陸道(くぬがのみち)と呼ばれていましたが、中央勢力の影響圏外であり資料が少なく、統一された国家であったかは不明だそうです。
そんな越中国だった時代の1183年に、歴史的な出来事『倶利伽羅合戦』がありました。
あの小矢部市のメルギューくんでおなじみの火牛の計です。
ただ、本当にそんな事件があったのかと言われれば不明らしいですね。
倶利伽羅峠は現在も平家と源平の歴史的な観光名所として人気のスポットとなっています。
→源平のエピソードと共に「倶利伽羅峠の戦い」
そうして、戦国時代が終わると江戸時代にとツニュして、1639年に富山藩が成立しました。
ここでようやく富山という名前が登場ですね。
この江戸時代に、前田利次が10万石を与えられました。
また収穫された米を近畿へ運ぶための海上交通として多くの北前船が就航したことでも有名で、富山県でも現在なお建造物が残っています。
→北前船廻船問屋「森家」
ちなみに富山という名前の由来は諸説あり、現在どれが正解かはわかっていません。
またこのとき、全域は4つの郡に分かれていて、新川(にいかわ)・婦負(ねい)・砺波(となみ)・射水(いみず)の4郡でした。
そうして、1871年に廃藩置県が行われ、富山県は石川県の一部になりました。
そうなんです。富山県は石川県の一部になってしまったんですね。
画像引用 「富山城博物館便り」より
ちゃんと歴史の教科書や文献にも残っています。
実は富山県ができるまではかなりすったもんだがありました。
廃藩置県の最初は、加賀藩は「金沢県」に、富山藩は「富山県」に、大聖寺藩は「大聖寺県」という仮決定が政府によって行なわれました。
続いて明治5年に、加賀国が「金沢県」、能登国と越中国の射水郡が「七尾県」、射水郡以外の越中国が「新川県」となりました。
ところが、この後政府は地方財政確保のため、全国的に府県の大統合を行い、明治9年に加賀・能登・越中国と越前七郡を併せて「石川県」となったのです。
ちなみにこのときのことを、大石川県時代と呼ぶそうです。
ただ、この地域性を無視した府県大統合は、各地で矛盾を引き起こし、明治16年に富山県は独立しました。
1889年に市制、町村制が実施され、このとき富山県は2市31町238村だったそうです。
めっちゃ村が多い。
1918年に、あの有名な米騒動が起こった最初の場所は、なんと富山県なのです。
場所は魚津の海岸にある旧十二銀行であり、当時の銀行はお米の倉庫でもありました。
ここの近辺では、米騒動に関するいろいろなパネルがあって、観光地化されています。
教科書で少しかじった程度ですが、実際に米騒動が起こった場所に来てみると、なんだか歴史的背景をダイレクトに感じることができます。
→【米騒動発祥の地】富山県魚津市で最初に起こった原因と理由とは
1945年に広島、長崎へ原子爆弾が投下される前に、富山大空襲はありました。
実は富山大空襲の前に、米軍がわざわざ富山市民に空襲を伝えるビラを空からバラまいていたのですが、ほとんど避難した人はいないと考えられています。
というのも、普段から国から「逃げずにとどまって消火せよ。」と言われていた結果、このような悲惨な結果になったようです。
→あまり知られていないが、富山大空襲は国内最悪の破壊率だった。
特に黒部ダムは、関西電力の社運をかけた一世一代の大規模プロジェクトで、数々の犠牲の上に完成しました。
関西地方への電力供給は無事供給され、今では多くの観光客が訪れる場所となりましたね。
→黒部ダムの歴史知ってる?戦後最大の過酷な現場だった
1968年には、イタイイタイ病が国によって認定されました。
イタイイタイ病の由来は、患者が「痛い、痛い」と泣き叫んだ事からで、なんとも悲痛な出来事でした。
原因は神通川上流の三井金属鉱業神岡鉱山亜鉛精錬所から出た廃水に含まるカドミウム (Cd) と断定され、富山県民が立ちあがり、裁判は勝訴になった歴史的な事件でした。
→日本初の公害病を学べ!「イタイイタイ病資料館」
富山県の市町村は、さきほど説明した通り2市31町238村でしたが、合併が相次ぎました。
1889年
1969年
2006年
2004年 新砺波市、南砺市誕生
2005年 新富山市、高岡市、射水市誕生
2006年 新黒部市誕生
こうして見ると、舟橋村すげーな。
今後も日本一小さな村として頑張ってほしいです。
2015年に北陸新幹線開通がありました。
これだけ大きな経済的影響を及ぼしたのなら、歴史的な出来事でしょう。
今となってはもうそんな年月が経つの?って思いますが、こう見えていろいろ進化している富山県が今後とも目を離せません!
五箇山は、富山県の南西端、庄川沿いに位置する自然豊かな地域です。
立ち並ぶ合掌造りの建物、のどかな山村風景、どこか懐かしい小さな山里が点在します。その中で、富山県にある相倉集落と菅沼集落、岐阜県白川郷荻町集落が1995年に世界遺産登録されました。
五箇山には現在も人々が生活しており、必要以上に人の手が入っていない素朴でこじんまりとした農村集落は、日本の原風景そのもの。現在では日本だけでなく海外の人から人気の観光スポットとなっています。
世界遺産になるほどの建築物なので、これはまず最初に紹介しておきたいですね。
→【五箇山】絶景の展望台や名物いわなを食べに行ってきた
旧富山県立農学校本館・巖浄閣は、南砺市にある県内唯一の明治期の学校建築です。
緑で囲まれた校舎はコロニアル・スタイルの木造2階建てで、桜色の外壁は青く澄み渡った空に美しく映えます。
築100年以上もの歴史のある校舎は、どここかノスタルジックな雰囲気を漂わせ、足を踏み入れればまるでタイムスリップしたかのようです。
この校舎は地元の資産家で県会議員でもあった島巖(しまいわお)の強い思いで建てられました。
明治42年(1909年)には皇太子(大正天皇)の御座所になった由緒ある建物でもあり、中の展示室をはじめ建物の内装や造作から当時の様子を垣間見ることができます。
→【福野高校巌浄閣】国指定重要文化財の富山の学校に行ってきた
金岡邸は、「売薬王国とやま」の成り立ちや発展の秘密など、300年の歴史を丁寧に教えてくれる資料館です。
店舗にある壁一面の薬たんす(百味箪笥)、薬の製造に使われた道具、薬を入れて運んだ柳行李(やなぎごおり)、鹿の角など約180種類の生薬原料、さまざまな資料が展示されています。
迎賓の間として造られた新屋、見事な総檜木格天井の建物、庭園も見逃せません。
健康茶(無料)を一服いただきながら、富山売薬の歴史を感じることができ、薬研体験コーナー(200円)もあります。
また、金岡邸のはっぴ(無料)の貸し出しもありますので、ぜひ記念写真を撮っていきましょう!
→【薬種商の館 金岡邸】ロケにも使われる!くすりの家に行ってきた
松桜閣は、富山県黒部市にある近江八景の趣を取り入れたとされる回遊式庭園の眺めが壮観な初代富山県知事の元私邸です。
中央には豊かな水をたてた琵琶湖を模した池と、茶室のある島がありそこからの眺めは格別です。
庭園正面にある松楼閣は現在書院風茶室として利用されていて、1956年には黒部市指定名勝に指定されました。
→【松桜閣】黒部市にある初代富山県知事の家に遊びに行ってきた
内山邸は越中一千石地主といわれた豪農の館です。
幕末の1868年に建てられ、その立派で重厚な造りに、当時の繁栄が想像されます。
瓦葺き切妻造りの木造一部二階建ての母屋、名石や庭木を配置した宏大な庭園では四季折々の風情を楽しむことができます。
敷地内には農作業の小屋などもあり藩政時代の伝統的な豪農屋敷の構えと生活様式を残しています。
邸内に、茶室が3ヶ所、内山家から寄贈された美術品、文学資料などを鑑賞することができます。
また、内山邸庭園東側には梅園が広がり、1月末から3月下旬まで楽しむことができます。
→【豪農の館 内山邸】財力と武器を持った百姓の家に行ってきた
菅野家住宅は、明治33年の大火直後に再建された耐火構造の土蔵造り建造物で国の重要文化財です。
外観は黒漆喰仕上げで棟に箱棟、鯱や雪割を付ける等重厚な意匠となっています。
両袖に防火壁(釉薬を施した煉瓦造り)、道路側や庭側に鉄板を貼った防火戸、2階の観音開の土扉を備えた窓があり、有事には貝が蓋を閉じるように防火万全構造を取っています。
内部は数奇屋風で白木柾目の檜、屋久杉等銘木を使用し、ベンガラの朱壁が鮮やかで特徴的な建造物です。
→【土蔵造り】高岡山町筋のまち資料館と菅野家に行ってきた
岩瀬の大町通りにある森家は、国指定重要文化財にもなっている日本海で活躍した北前船の廻船問屋です。
行きも帰りも荷を載せて「倍倍」に儲かることから、地元では北前船のことをバイ船と呼ばれていました。
往復で儲かるので「のこぎり商売」ともいわれ財をなしました東岩瀬港では幕末から明治にかけてが最盛期で、この森家も1878年に建築されたものです。
屋久杉の板戸、能登産黒松のはり、土間には小豆島産の巨大な1枚岩など、全国各地の材料を使った贅沢なつくりとなっています。
主屋であるオイの間の吹抜けの木組み、土蔵のこて絵など見どころ満載です。
→【北前船廻船問屋 森家】岩瀬にある富山を昆布好きにした場所!
高岡市伏木北前船資料館は、廻船問屋であった旧秋元家住宅を利用してできた資料館です。
伏木と周辺の村々の歴史、当時の水運の様子を紹介するほか、古地図や引札、船主の生活道具など、貴重な資料を展示しています。
民家としては建築年代が古く、船の出入りを見張った望楼が残るなど、かつて北前船で繁栄した伏木廻船問屋の数少ない遺構として評価され、1998年には高岡市指定文化財に指定された歴史ある建築物です。
→【伏木北前船資料館】元秋元家の歴史的建造物に行ってきた
浮田家は、加賀藩役宅として、江戸時代中期の豪農民家の建築様式を当時のままに残す貴重な建造物です。
堂々たる表門、茅葺き屋根の立派な主屋、池や築山を配したしっとりとした趣の庭園、松やヒノキを惜しげもなく用いた梁(はり)、随所に威厳と気品を感じることができます。
浮田家は、立山・黒部一帯の山林保護と国境警備をつかさどる加賀藩の奥山廻役を代々務めてきました。
現在は茶室としても利用されており、ここでいただく一服はさぞ格別の味わいでしょう。
→【浮田家住宅】ロケ地にも使用される富山の旧家に行ってきた
ということで、富山県の歴史をざっくりですが紹介してみました。
どうせなら自分たちで何か面白い歴史を富山で作っていきたいのですが、どうでしょう。
今わたしが考えていることは、富山県知事に立候補して、富山湾にヌーディストビーチを作ることです。
「おい、セクハラで訴えるぞ!」という人も待ってください。
ヌーディストビーチが富山県に出来たならば、軽く1,000万人は富山県に移住してくると思うんですよね。うん、正常な人間なら間違いなく移住します。
そして富山県の経済が発展して、東京を追い越す勢いになり、そのときの知事はレジェンドになるでしょう。
石井知事、頼みますわ。